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所長の研究日誌 (4/17) 休みってイイなぁ、な、晴れ。

今日までの各ラボの研究発表は、
となっております。よろしくどうぞー。

                 *      *      *

さて、今月末には齢35となる新米所長。
本日はその生誕35年を「一応」記念して、音楽遍歴なぞを振り返ってみたりして。


時は西暦1970年、昭和で言うと45年生まれのワタクシ。
この年は、ビートルズが解散し、ジミヘンとジャニスと三島が没した年。大阪万博の年でもあり。

ピンクレディーのデビューが1976年。ということは、当然”ペッパー警部”(←今考えると何つー曲名だろう)から記憶にある年齢ですね。小学校低学年の頃はゴダイゴが流行っていた記憶があります。

が、まぁこの辺はTVから流れる曲をただ耳にしていた程度で。「実はオヤジがミュージシャンで、オフクロはピアノを教えてましたし、兄貴の弾いていたギターに憧れてオレも・・・」みたいな環境は全くなく、オヤジは仕事一辺倒の人で、オフクロはTVのバラエティー一辺倒だったし。

ただ音楽を聴くことは好きで、雑誌でみた当時大人気番組『ザ・ベストテン』のランキングの折れ線グラフなんかを自分でも作ってみたりして。「おっ、マッチの『ヨコハマチーク』、今週落ちたか。うん、予想通りだな」なんて、「お前誰だ?」的なことしてました。
あと、ラジカセを持っていなかった為、両親に「しぃーっ!」って言いながらTVにカセットレコーダー近づけて録ったり。

そして、いよいよ自分のカセットデッキを買い、お小遣いを貯めて音源を買うように。ここが原点と言っていいでしょう。

・【1981~1983(11~13歳) : ニューミュージック紀

この頃はカセットテープ。記念すべき最初の音源は・・・中島みゆき『臨月』。って、シブっ!さらに、杏里『思いきりアメリカン』、中島みゆき『A面コレクション』、オフコース『YES-YES-YES』、と、今思うと何故そちらの方向に行ったんでしょう?とにかく、この頃はニューミュージック派だったんですよねぇ。

余談ですが、杏里さんはワタクシのいた学区の高校に通われていました。


・【1984~1985(14~15歳) : さだ紀

中学時代の親友に勧められた、さだまさし『印象派』
「さだまさしって”関白宣言”のあれでしょ?」などと生意気な口を叩いたボクでしたが、すっかりどっぷりとハマってしまったわけで。以来、中学時代はさだまさししか聴いていなかった印象すらあります。
今では著作なども人気ではありますが、当時、中学生でさだまさしが好きだなどというのは周りには僕ら二人しかおらず、二人だけで盛りあがっていましたね。

♪他人のことなど考えられずに 大切な花畑
  平気で踏み荒らしてヒンシュクをかう B型~

でも、ホントいい曲が多いんですよ~。ほとんどのアルバムをレンタルして揃えました。中でも”極光”が一番好きでしたね。

高校卒業した頃に「好きな音楽は実際にCDで全部揃える!」と思い立ち、それまで数百本とあったレンタルで録り貯めたカセットを全て廃棄処分してしまったんですよね。ウチのラボは”音源”がウチにないものはランキング対象外とする、としているので、この頃のは全てランキング外なのです。実際は今でもさださんの曲はランクインするものありますね、きっと。


・【1986(16歳) : 洋楽・黎明紀

そして、高校生。
その頃プリンスが好きだった従兄の影響で、自分も洋楽を聴くように。当時、「ベスト・ヒット・USA」という番組が土曜日にやってまして。軽快なテーマソングと小林克也氏の進行で、って懐かしい・・・。ま、それがワタシの洋楽入門コースだったもんで、自然、ヒットソング中心に。

あ、あと、この頃FMラジオなぞも聴き始めました。カマサミ・コング、とか。
テレビ神奈川でやってた、「Billboard Top40」も観てましたね、そういえば。うん、徐々に思い出してきた。中村真理さん、だったかな?

当時はボストン”アマンダ”やジェネシス”インビジブル・タッチ”等が流行ってました。


・【1986~90(16~20歳) : 洋楽・HR/HM紀

そして、その洋楽元年の夏。チャートに少し今までと違ったものがやってきます。その名はBON JOVI
かくして、「ちょっぴりハード、でもメロはキャッチーです」っていうスタイルにハマっていく事に。「バンド」というものに憧れを抱き始めたのも、多分ここから。

そして、翌年。GUNS N' ROSESを目の当たりにして、完全にそっち系にシフトチェンジされます。

この後、RAINBOW、DEEP PURPLE、QUEEN、Yngwie Malmsteen、THIN LIZZY、WHITE SNAKE、HELLOWEEN、METALLICA、SKID LOW、AERO SMITH、HANOI ROCKS・・・と聴いて行くのでありました。憧れの対象がボーカルからギタリストへと変わっていったのもこの辺りから。

そして、この紀の中のほんの短い間に、洋楽・プログレ紀として、MARILLION、KING CRIMSON、RENAISSANCE、RUSH、YES、NOVELA・・・などがひっそりと。

そして、この紀の音源もレンタルしたものが多く、前述したとおり全て廃棄された為ランクから漏れてます。後に中古でみつけたもののみ、ラボに戻ってきてますが。


・【1986~89(16~19歳) : BOØWY紀

そうした洋楽を聴きながら、片や邦楽はというと。
高校1年の時、”B・BLUE”を聴いてからの3年間は彼らでしたねぇ。いやぁ、大好きでした。
<LAST GIGS>も観に行きました、東京ドーム!しかし、バックネット裏から観たメンバーは顕微鏡が必要な程であり、さらに音はというと、音速を持ってしてすら巨大スクリーンの映像とはズレてしまうほど。彼らとの距離を痛感して帰路に着いたのを覚えています。
こっそりと忍ばせたカセットレコーダーには、120min.分のボクと友人と半径3mの人達の歌声が入るのみ・・・

この後その<歌謡ロック>の流れで、PERSONS、ZIGGY、REPLICA、リンドバーグなどが歴史に埋もれていることも記さねばなるまい。氷室、布袋、両名のソロも1作目までは聴いたかな?


・【1987~90(17~20歳) : おざ紀

ちっとも、うまくねーし llllll(-_-;)llllll

・・・えー、そうして丁度BOØWYを聴き始めた頃、友人から一枚のアルバムを手渡される。って、こうしてみると、友達からの影響受けまくりだなぁ。で、そのアルバムは『17歳の地図』。『回帰線』の発表がこの2年前の'85だったのだから、とっくに世間では騒がれていたはずですが、何故かまるで「尾崎豊」の名前を知らなかったワタシ。その時も借りて半年くらい聴かなかった(←最低!)。「そろそろ返して欲しい」という発言を受けて、じゃあ最後に聴いとくか、って耳にしたら!で、メロメロですわ。
彼もさだまさし、好きだったようで。その辺の繋がりも若干あるかな?

好きになった時には、彼は既に国内にはおらず、”核”引っさげて帰ってきたかと思えば
♪おれの体はぶくぶく太り始めて~ぇ っていう歌詞通りに明かにドラッグやってるカンジの体つきで、早速逮捕されちゃって。

出所後、初のライブ開催でようやく生でみれるってんで、チケット取るためにビッグエッグ(って言ったよね?)外で雨の中一泊したのが一番の思い出。
昔は案外動いてたなぁ。


・【1990~95(20~25歳) : すかんち紀

前述とは違う従兄の影響で、すかんちを聴く。QUEEN好きというところでローリーとは気があった。キャッチーなメロ作りの才能、わざわざギターソロの録りの時には周りの人を集めてやるというナルシストっぷり、ローリーはフレディと並ぶ、ボクのヒーローでした。

BOØWY、尾崎の後、聴くものがなかったという自分的には「邦楽不遇の時代」、彼らだけをずっと聴いてました。

残念ながら、すかんち時代にはライブに行けなかったけど、ソロになってからはライブも行けたしCDも引き続き買ってます。


・【1990~(20歳~) : UKギターポップ紀

そして、我が音楽人生、っていうか人生の大きな転機がここでやってきます。
大学生になって、初めてバイトしたのがCDとビデオのレンタル店<友(YOU)&愛(I)>。ボクが働き始めた頃、そこの25歳くらいの店長さんも他所からやってきたばかりだったらしいのですが、徐々に自分のカラーも出そうとしていたのでしょう、お店の片隅に自分のコーナーを持ちまして。それがUKポップ/ロックのバンドを紹介するもので。
それまでは「ギターソロがバリバリ入ってて、ハードじゃないとダメだ!」みたいに思っていた自分は「ん~、なんかヌルそうだなぁ」などと思っていて。が、ある日お店でかけるのに、ふとそのコーナーでも店長一押しのをかけてみようかな?と思って手にしたのが、THE STONE ROSESの1stで。ここからボクの音楽のベクトルは今までと違った方向へ。

その後、方向性はほとんど変わってませんね~。多大なる影響を受けました。

で、ボクの言う”ポップ”というのは、”自分の中でポップ”ということで、世間一般でいうジャンルとはズレます。自分の中ではロックだろうと、ジャズだろうと、クラシックだろうと、童謡だろうと、自分が好きだと思うものは全て”ポップ”という括りですので。あしからず。


・【1997~(27歳~) : ナカムラ紀

そして、洋楽での転機は20歳で訪れましたが、邦楽での転機は27歳で彼に出会ってから。
自分の中で決まった数少ないもの以外、邦楽とは袂を分かっていたわけですが。その時も洋楽雑誌の<rockin'on>を読んでいたのですが、その中に少しだけある邦楽CD紹介のコーナーにふと目をやると、たしか渋谷陽一氏の評で「普段あまり邦楽を聴かない人にこそ聴いてほしい、天才の出現」みたいなことが書いてあって。それが、中村一義『金字塔』であったのです。

そして、以降こちらも未だにずっと続く、長い紀であり。
きっとこれは生涯続くんだろうなぁ。


という、ちょっぴり恥ずかしいと思うような”紀”も全て含めて、ボクは今、この連なる地層の上に立っています。
これからも新たな”紀”が生まれるのかなぁ。生まれるといいなぁ。

                 *      *      *

それでわ、本日の締めの句を。


いろんなねぇ、色、音で、
出会う感動も、まだ、あるとして…、そう!

( 中村一義 『1、2、3』 )



それじゃあ、見に来てくれた方どうもありがとう!おやすみなさい!

o ̄_ ̄o)人 なますて~

by robita00 | 2005-04-17 11:57 | 所長の研究日誌